昨日に続いて山歩きです。私の場合一度始めるとやみつきになるというかそんな気質があります。きょうは四万川の奥の山に行くつもりだったのです。それというのもこれからしばらく良い天気がないとの予報できょうの晴れ間を有効にとのことだった。ところが中之条の奥の山は雪雲でまったく見えない。そこで四万の手前の山に急遽変更をしました。自宅では青空が出ていたのに四万ダムの辺りを境に北側は日本海側からの影響を強く受けるのです。今回訪れたエリアをまず地図で確認しておきます。今回カメラを忘れてしまったのです。北側から順に歩きました。
まず向かったのは寺社平。ここの南西にある692.4mの峰。地図にマークしてあるのだが小さい山なのでなかなか実行のときに恵まれない。寺社平の集落に入って人影を見たので車を止め、山の名前と道の有無を訪ねた。名前はここらでは愛宕山と呼んでるね。とのこと、すぐそこの笹を刈ってあるところから登るんだそうだ。車をそこに移動して道脇に止める。
正月に地元の人たちが登ったらしく、なるほど笹がきれいに刈ってある。それに山道を塞ぐように竹に縄を張って、紙垂(しで)を下げ注連縄が張ってある。ここから先は神域だという結界を示しているのだ。地元で大切にされているとみえ、歩きやすい。杉の葉が厚く敷かれ、じゃまになる枝はすべて取り除かれている。杉の葉の上にいま降っている雪がうっすらと覆い神域にふさわしい雰囲気だ。頂上が近くになると道はジグザグになって程なく頂上の一角に付いた。下から10分ほどだった。頂上の西、四万川の方は急な崖になってほとんど垂直である。頂上の少し奥に思ったより大きな社があった。中にはいると社の改修について書かれている。貫湯平18戸、寺社平22戸によって改修されたようだ。1.5坪ほどの社だ。頂上にあるはずの三角点の標石はいくら探しても判らなかった。

次に向かったのは四万川から西に離れて伊賀野という集落の北の山843.1m峰である。この山は日本山岳会の重鎮であった望月達夫さんの筆になる「藪山辿歴」に『沢沿いの細道をたどって下ってきたら、うち開けた小天地にポッカリと出た。地形図を見ると伊賀野であり、四方を低い山に囲まれた日だまりの別天地で‥』という記述が忘れられず今回の訪問となりました。なるほど日だまりの山村でモミの巨木が印象的なところだ。この文章は昭和58年に訪れたときのものだがいまでもそのときの集落の戸数と違わないように見えた。居心地の良いところなのかも知れない。まずはモミの見学から。一瞬見上げたとき枯れてしまったんだと思ったのは大間違い。上部は折れてしまっているけれど太い枝が横に伸び。その先には紛れもないモミの針葉が青々と付いています。大地に深々と穿たれた根はなんと1.5mは優にあり、幹は2mを越えそうである。モミは成長が早く大木をたくさん見るがこんな巨木は始めてみました。まさに風格がある。樹齢推定400年だそうだ。奥の2軒の家の間を小さな沢が流れるその右側を真っ直ぐに上り、尾根に出る直前に赤布を付けた。それより下に赤布を付けなかったのが失敗で、下りに尾根を間違えた。なんかおかしいとすぐに気づいて登り返したが危ないところだった。尾根に出るとイノシシが毎日通っているらしく歩きやすい尾根であった。こんどは要所に赤布を付けたので下りにはそれに助けられ誤らずに下山した。さて、頂上には1時間で到着した。三角点はほとんど埋まっていて頭だけが出ていた。まわりを掘ると三等と書いてあるようだった。標石のすぐ西に天明と書かれた石祠があった。南に水沢山が見える。足下には蓑原の広大な農地が広がっていた。帰りには自分が付けた赤布はすべて回収した。いまほとんどの人が目印のテープを残置しているようだ。意見はいろいろだが自分が来たときの状態に戻した方がよいと思う。最後のおまけは四万と沢渡の分岐点にある内山城址。国道からもてっぺんに鉄塔が二本建っているからすぐに判る。送電線の真下近くに国道の脇が車2台くらい置けるスペースがあるのでそこに止める。なんだか職住接近みたいな感じだ。車を降りるとすぐ登山道だ。とはいってもこの道は送電線巡視道です。所々プラスチックの階段があります。登りだしてすぐこの寒いのにスミレが咲いています。「寒風の落ち葉に一輪すみれかな」凡句ですな。頂上には鉄塔以外別段なものはなかった。三角点は藪の中にあり、だれかがここが三角点だよと知らせる赤いテープがぶら下がっていた。内山城は嵩山城の外郭(そとくるわ)であったらしく、嵩山城の落城と共に廃城になったようだ。