けさ最低温度計は-4℃を指していました。暖かくなってから私が山仕事をしている中之条の山へ向かいました。ここでの仕事もきょうが最後なので近くの小さな山を登っておこうと付近の地図を持ってきました。作業は30分くらいで終わってしまったのでさっそく山には入りました。山を登っているときは、その山の名前は判りませんでした。地図の赤線の山です。
始めの傾斜の緩いところは昔の道がありました。明瞭です。
道が急になったとたんに道がなくなりました。北側から来る尾根に上がると急な道ですがあっという間に頂上に着いてしまいました。踏み跡もしっかりしています。歩き出して20分でした。頂上に屋根のなくなった石祠がありました。かわりに平らな石が乗っています。すぐ北に前新田のはたけ山(畑山?)がこちらより少し高く見えます。
北風に山が鳴っていて寒く、すぐに下ります。小さな山ですが好きな人は登っているのだと思いました。帰ってから地元の方に聞くと木合岳(きごうだけ)と教えられました。このあたりは地名、おそらく小字(こあざ)が木合というそうです。
このあたりには小さな山がたくさんあります。その多くの山頂に祠があります。山で生活する人たちは自然が身近というよりも生活の場そのものでした。山で木を切り人力や馬で搬出する。山にこもって炭焼きがまを作り何日も山で過ごす。山菜を採り、木の実を拾い、動物も捕る。危険もある。山は生きるための恵みをもたらす。感謝し、安全を願う。神も身近であったのだろう。神というよりもっと身近な自然の中で共に生きる存在だったかも知れない。そのころはどんな小さな山も名を持っていたのではないか。いつの日か山人も自然が以前より身近でなくなり山で薪を拾う必要もなくなった。一代後、二代後には昔あった地名も山の名も失われるのは早い。地図にあるはたけ山も裸山とも言っている人がいたり、どれが正しいのかいまとなっては判断が難しい。文化が失われるのは早い。気がつかないうちになくなって行く。

木合岳の東に山主坂という地名がある。集落名だったのだろう。いまでも2.5万地形図に家屋が記されている。定住者はいない。ここだけではない、すぐ北の前新田も栃窪も定住者はいない。畑仕事や第二拠点としてときどき来るくらいだ。この山主坂をどう読むか。ヤマノシュザカと読む。すぐ近くに国指定の史跡で東谷風穴蚕種貯蔵所跡というのがある。するとたいていの人はサンシュザカと読むのではないか、蚕種が山主に転訛したのではないか、と思うのが自然であろう。私もそう思った。ところが先にお話しした地元の方と知り合ってからヤマノシュザカと知らされた。???!!最近上毛新聞社から出版された「吾妻の里山」という本の著者も私と同じように感じていたようだ。その方が自然だと思うが、日本語がどんどん変わってゆくように地名も時代によってどんどん変わってゆくのだろう。北浦和とか東浦和とかのかわり方とは関係ないけれど。