「清貧の思想」  中野 孝次著   文春文庫

20世紀後半、日本は急激な経済膨張し、いわゆるバブル経済といわれる状態であった。私などはほとんど実感がなかったが、「解説」の内橋克人氏によると、一年に370兆円もの資産膨張を記録したそうである。経済の実態の増加ではなくて、それ以上に金額だけが増えたのだから異常である。
工業製品を作り、それを輸出してそれ以外の文化は無いのかと、海外から見られる風潮に危機感を持たれた著者が、経済だけでない、人間の生き方としての古くからの文化について語ったのが本書ということのようだ。

職業倫理という言葉がある。職人だったら、けっして手を抜かないとか、商人だったら正直であるとかだ。
高位の役人なら地位と程度の差はあるにしろ、ある種の特権を持つだろう。許認可などはその最たるものだ。
庶民は特権を持たない。
特権を持っている地位にあるものは、人間として平等であると言う意味において、持たざるものに対してある種の義務を負うことがなければバランスが取れない。それは清廉ということであろう。
これを西欧ではノブレス・オブリージュといって明文化されない不文律の社会ルールとして重視される。
賄賂を取るとか、接待を受けるという誘惑に乗るのは反行為である。
「飲み会を断らない女」とその人はいう。20歳を出たばかりの若者ならいざ知らず、熟年に至ってもそういってはばからない者とはいったいどんなものだろうか。
正常な倫理観を持ったものならば、こういうことをいう人は遺棄すべき対象であろう。それを国政の最高位の者たちが、仕事ができるからなどといってもてはやすなど、政界の倫理観も地に落ちたというべきであろう。

明治維新以前の文化には上記のようなこととは真反対の思想、生活信条を持って人々は暮らしていたのだ。
初代駐日米公使のハリスは「私は質素と正直をいかなる国におけるよりも日本においてみた」と書いている。
20年以上前の朝日新聞だが、「日本には、連綿と続く歴史の中で培われた美意識、生きていくうえで恥ずかしい行動はしないといった原理がある ‥中略‥ 日本人の倫理の中核に位置していた美意識を取り戻すべきだ」ともいう。
筆者は「清貧の思想」を日本文化の一側面と遠慮していっている。
このような考え、思想はメジャー足りえないと思われがちだが、日本人の国民性として広く敷衍していた時代が長くあったことを忘れてはならないと思う。
少し古い本だが、いま一度、いまこそ読みたい本である。