「太平洋一人ぼっち」   堀江謙一著  角川文庫

私の中で、植村直己と堀江謙一とは、植村は山で、方や堀江は海で青春を謳歌し、時代の寵児となった人、という思いがある。

1962512日、5.8m余りのマーメイド号で西宮を出港し、812日、94日間で太平洋をヨットで単独初横断を成し遂げたのだった。
大西洋はすでに多くの横断例があったが、太平洋の横断はまだ誰も小型ヨットでは成し遂げた人はいなかったのだ。ニュースは外電でセンセーショナルに伝えられた。
堀江は出発まで合法的に出国する方法を模索したが、日本の行政はまだまだ保守的であった。そのため、西宮の港から、夜一人静かな出港であった。
アルバイトで稼いだ金で造ったマーメイド号は小さな船だから装備や食料を切りつめないと安全に航海できない。必需品の水は12リットルといわれている。しかし救命艇では1リットルという規定らしい。堀江は摂取する食料の水分も差し引いて、一日0.5リットルとした。雨は当てにしないが、降ってくれればラッキーと考えた。

出発後3日目に早くも低気圧に遭遇。まだ紀伊水道だ。日本近海では他船に遭遇するたびに神経を使う。どこまで行くのかと聞かれれば「八丈島」と答える。その八丈島も10日目でクリアーし、自艇の位置の測定にも自信を持った。これまで本土から八丈島まで来たヨットは一艘だけしかなかった。それも4人であったから、シングルハンドでの操船にも自信を深めた。
それもつかの間、13日目(524日)台風の目に入ってしまった。ボートはバラバラに解体するかと思われた。
アンカーに40mのロープをつけ、スターン(船尾)から流した。こうするとヨットをかぜに立てることができ、安定してくるのだ。船は横波に弱いから、風の向きと平行にしなければならない。
水漏れも一日でバケツ60杯を越えた。
翌日嵐からは抜けたが、船の中はグジャグジャ、積んだ荷は右の棚から左へ、左からさらに右へ、前後もすっかりミックスされてしまった。何でこんなになったのか魔術の謎解きを推理する余裕もでてきた。
逆に風がまったく無いときもある526日気圧は1022mb。ビール2本も飲む。65リットルの水ももう18リットルしか残っていない。それでも気にしない。「雨も降るやろ」「海には水たくさんあるしな」
17日目、また嵐が来る。航海は強風、無風、順風といろいろ。そのたびにセールをこまめに交換する。風向も追い風、向かい風、横風、舵取りもセールの張り方も、ときには、海に入って船底の様子を見て貝や海草取りもする。
47日目、中波ラジオがバンクーバーの放送を伝える。アメリカ大陸を身近に感じてくる。
48日目、シングルハンドの航海も余裕が出てくる。今回の航海が条件のいい季節を選んだのを悔やむ。次にはきついシーズン飛び出してくるんだ、と気負うまでになった。翌日も順風で大きくヨットをヒールさせて強気のセーリングをする。「いける、いける」と。しかし、疲労防止のため、なるべく陽に当たらないようにも気遣う。
7859日目、ピカッと感じる。ジョンストン島の核実験。西空は不吉な赤い色だった。ラジオも聞こえなくなった。心配になりだす。雨水は使わないことにする。
8890日目、小鳥が一羽来艇、陸地が近いことを思わせる。810日天測し、かなり近い。夜も走る。翌朝陸を認める。『バカに殺風景なところだと思った』
812日ゴールデンゲートをくぐる。

余談:この記事のまえにスローカムの単独世界周航記を扱いました。これに引き続いた日本人のイベントとして太平洋一人ぽっちを扱いました。

いつのことだか、堀江謙一と三浦雄一郎の公開対談が東京でありました。会の前、サイン会で、私は持っていたアルミボトルにサインを頼んだら、三浦が『本当にここに書いちゃっていいの』と遠慮がちに言った。使っているうちにいつかこのサインもはげ、穴が開いて廃棄となってしまった。
この頃私もクルザーにときおり乗り、ヨットや海洋冒険の本をたくさん読んでいた頃でした。