「尾瀬と鬼怒沼」  武田 久吉著  平凡社ライブラリー

明治から昭和初期までの4回の尾瀬行と、2回目の尾瀬再訪のときの同行者の紀行からなり、尾瀬を伝える著者撮影の貴重な写真が58点。すべて人工物や人の踏み跡さえない手付かずの当時の面影を伝えている。
武田久吉は、高山植物や尾瀬の自然保護でなどで著名であり、幕末維新の頃の英国外交官アーネスト・サトウが父であることはよく知られている。日本山岳会の創立会員でもあった。
「植物学雑誌」に載った記事に刺激されて武田は尾瀬をめざす。そして自身が創立した日本山岳会会報「山岳」の第一号の記事に「尾瀬紀行」を書いた。文語体であったらしい、それを本人が口語体に新たに書き直したのが本書の「始めて尾瀬を訪なう」だという。

日光の湯元から旅は始まり、尾瀬、尾瀬沼を探訪し、さらに鬼怒沼へ足を伸ばす予定を尾瀬だけでも十分満足したので、案内人の言を入れて出発地の湯元に戻った。
当時は全コース徒歩であるから、現在より2倍も3倍もの距離を歩くことになる。登山道も、もちろん木道もない時代だからヤブや湿地、泥土に足を取られながらの探訪であった。現在の私たちにはその大変さはちょっと想像が難しいかもしれない。

私が始めて尾瀬に入ったのは、単独で利根川上流の湯ノ小屋から尾根をたどった。途中マムシが10匹くらいとぐろを巻いているのに出くわして、登りはじめたばかりなのに引き返えすのかと落胆したり、笠ヶ岳の手前でビバークしたときは、ツエルトの向こうから動物らしい足音が近づいて付近をウロウロする様子、耳元で鼻息をブワーと鳴らす音にチヂミ上がって息をころしたことを想いだす。
尾瀬ヶ原、尾瀬沼はそれまで一人にも会わなかった人がたくさんいて、まるで銀座のようだと思った。
さらに足を伸ばして大江湿原から小淵沢田代、黒岩山をへて鬼怒沼を訪れたけれど、ここも尾瀬を出たらやはり一人にも出会うことはなかった。この山行は始めと終わりの印象ばかり憶えていて、尾瀬の印象は何も残っていない。このことを思うと、この本の頃の労多かった頃のほうが自然と自分だけの世界に浸れてうらやましく感じられてならない。

尾瀬の自然保護運動といえば長蔵小屋の平野長蔵を思い出す。電源開発で水没してしまう尾瀬を救おうと長蔵は武田久吉の植物知識や社会への影響力を生かしての協力を申し入れ、何度も東京の武田宅を訪問し、相談したことが、山村民族の会会報の武田久吉先生追悼号にでている。

この本には春の尾瀬、秋の尾瀬の紀行も出てくる。「秋の尾瀬」の冒頭にブナ平の紅葉は日本一と出てくるが、わたしも御池から燧ケ岳に登ったときの紅葉、黄葉は言葉を失うほど素晴しいものだった。
ミズバショウや草花ももちろん素晴しいが、肌を刺す厳冬の尾瀬も、早春の残雪の尾瀬も全部尾瀬は素晴しい。