「シベリア最深紀行」 知られざる大地への七つの旅  中村逸郎 著 文春学藝ライブラリー

世界地図を広げるとユーラシア(Euro+Asia)大陸一杯にロシアの国土が広がっている。この広い国土に14千万余の人口しかいない。その国土の中央に位置するシベリアには3千万人しかいないという。そのうちの大部分はシベリア鉄道沿線の都市に集中していると思われるので、タイガ、ツンドラ、山地などは1平方キロに1人以下ではないか。
私にはそのことだけでもシベリアは魅力的だ。だからこの本を書店で見かけたとき本の題名だけで買ってしまった。

ロシアは連邦国で多くの共和国や自治管区を持っている多民族国家である。いったいどんな人たちが極寒の地やタイガの奥深くでどんな生活をしているのだろうか。この本が情報の少ない地域のどんな様子を伝えてくれるのだろうか。

私は一番興味のありそうな6章から読み始めた。
イルクーツクから北西に約300キロのタイガの密林に住む村の訪問記である。シベリア鉄道の最寄り駅から悪路を3時間80キロを行く。対向車なし、人家なし、通信手段なし、自動車整備ををしている運転手氏は野宿してもいいように食料を買い込む。2時間走って運転手は疲れきって気つけ薬にウォッカをあおる。もちろん違反だが、おまわりさんは見かけたことがないらしい。
着いた村には商店や病院など一切の公共施設がない。水道もガスもない。電気は自家発電。ロシアは天然ガスも、石油も他国に売るほどシベリアで産出するのにである。

村人は自給自足で暮らす。この村ばかりでなく、著者が訪ねた村は遊牧民の住まいでさえ明るく清潔で家具や装飾品はもちろん、われわれには必需品の洗濯機もない。しかし入り口には花が植えられ、精神的に充足した暮らしが伺われる。ただ、深夜一人でトイレにはいってはいけない。熊や狼がいるのだ。子供の家庭教育もしっかりしているようだ。学校も10キロ歩けばある。先生は一人。現金収入は製材だという。

なぜ彼らはこのような地に住んでいるのだろうか。実は彼らの存在は深いタイガに守られてロシア人や地元のイルクーツク市でさえ知る人はほとんどいないという。彼ら自身が回りの人たちとの接触を断ち、よそ者の来訪を好まないことにもある。だれからも干渉されず、自由に生きることを望んでいるのだ。この集落だけでなくシベリアの多くはタタール人やロシア、ウクライナなどいろいろな民族が土地を求めてシベリアに移住し、それぞれの地で自分たちの文化、信仰や伝統を守って暮らしているのだ。ロシア正教は主にロシア人のもので、他の民族はイスラム教、仏教、キリスト教、ユダヤ教、そして地の宗教であったシャーマニズム。一人でいくつかの宗教を持つ人も多く、イスラム教徒が教会に出入りするなどちょっと考えられないようなことが何の屈託もなく行われる。世界一般でいわれるイスラムとキリストとの反目などシベリアにはないのだ。
それだけシベリアは地理的にも精神的にも自由なように見える。「シベリアよりよいところはない」ということわざもあるという。
シベリアにはこんなこともあるようだ。ツンドラで放牧している人々のところへ選挙のときになるとヘリコプターで役人が降りてきて、何枚も投票用紙をくれ、それぞれに役人の誘導するような記入をさせて、また近くの放牧地(100キロ向こうの)へと向かうという。

シベリアのツンドラやタイガの奥地で生活する人々は他人に干渉されない静かで自由な生活に満足しているようだ。都会に出れば身体に不調を覚える。責任や人の思惑に悩む。素朴に生きるほうが精神的にも平安なのだ。現代社会の情報の氾濫と、必要以上の物質文明にさらされて生きる私たちは果たして幸せなのであろうか。奥地に住む彼らのほうが人として正常に思える。
彼らを、著者のレポートを通して見ていると時代を逆行して、現在の便利さを捨て、身の丈の生活に戻ることも可能なのではないかと思えてくる。

そういえば、ニューギニアの奥地で頑なに周囲との接触を断ち、自分たちの生活文化を守り通している人々がいるということを報道で知った。彼らは実り豊かな南方の地だからできるのだと思っていたが、シベリアの極寒の地でも同じように自分たちの習慣を守って暮らすことが可能なことをこの本から学ぶことができた。かたや原始的な生活と、文化的な生活の違いはあるが、めざすものは同じである。どちらも「豊かな自然と自由」ということがキーワードなのだ。

やはりシベリアは面白そうなところだった。