「李陵・山月記・弟子・名人伝」 中島 敦著  角川文庫

中国の古典に題材をとった短編集です。難しい漢字がたくさん出てきますがルビが振ってありますから読む上での障害にはなりません。原典が漢文ですから中島の文章も歯切れよく明瞭で、自分の読書力が向上したのと勘違いするくらいです。文章だけでなく見返しの写真にある草稿や巻末の「解説」にある書の筆跡もすばらしく30歳台で亡くなった人の筆跡と知り驚きと関心を覚えました。

中島は明治42年に東京で生まれ、昭和1733歳で喘息が原因でなくなりました。家系には漢学者が多く、それで、と思いましたが、特別漢学の指導を受けたことはなかったそうです。門前の小僧というものでしょうか。「解説」中島敦人と作品には、中島のまわりには幼いころから中国古典に対するいぶきがあった。とあります。

本書は6つの短編からなります。その冒頭が「李陵」です。私はこれを読みたくて購入しました。それというのも、中国の古典に興味を持ち始め、歴史書「史記」の作者である司馬遷がこの物語に登場するので、ぜひ読んでみたかったのです。

李陵は漢の時代の軍人です。歩兵5000を率いて北へ1000キロ、匈奴の領内に進み、寡兵でしかも歩兵のみです。

善戦しましたが、敵に内通した裏切り者によって、援軍がないことや、漢軍の窮状を知られ、とうとう敗走する途中で李陵は捕らわれてしまいます。

漢の武帝は李陵の処置を重臣に諮ったとき、李陵をかばったのが、ただ一人、先に書いた「史記」を後に書いた司馬遷でした。武帝の怒りを買って司馬遷は宮刑を科せられてしまいます。

それから8年、史記130巻は完成します。一方武帝の死を知らせる漢の使者が単干(ぜんう)のもとにきました。二人の使者は李陵の友でもあったのです。もちろん帰国を勧めるためです。しかし、李陵は帰らなかった。
すでにとらわれた当時の単干も司馬遷も、すでにこの世にはいませんでした。

山月記には思い出があります。中学二年生のとき病気で寝ていたときに、姉に山の本を何か買ってきて、と頼んだら、なんとこの山月記を買ってきてくれたのです。確かに山とは書いてあるけれど内容は山とは全然関係のない話でした。
このときは、これを読むだけの興味はまったくありませんでした。