「大興安嶺探検」1942年探検隊報告 今西錦司編 朝日文庫
この本は文庫としては相当の厚さです。597ページあります。私は、読んでいて扱いにくいので本を二つに分割してしまいました。ちょうど半分くらいの300ページで隊の編成が変わった構成になるので都合よかったです。
戦中の1942年に現在の中国内蒙古自治区と黒龍江省一部にまたがる地域の探検隊公式報告の紀行部分をまとめたものです。文庫本の出版は1991年。

メンバーは今西錦司を隊長として京大の学生が主体となった探検隊です。後の日本の学術をリードすることになる若者たちです(吉良竜夫、川喜多二郎、梅棹忠夫、藤田和夫ら)。隊長の今西は生まれつきといってよいほどのリーダーシップがあったようです。学問的にもモンキーセンターの設立や、生物進化論としての「すみわけ」理論の提唱など独自な考えを持っていたようです。
大興安嶺は高い山でもせいぜい1500mくらいなもので、老年期の高原のようなところのようです。それではどんな興味深さがあるのかといえば、寒冷気候による永久凍土地帯がもつ特有の現象や生態と、オロチョン族をはじめとする文化人類学的な興味にあると思われます。彼らは当時北方に住むトナカイを生活の主体とするトナカイオロチョン。南には馬をそれとする馬オロチョンなど同じ種族でも生活形態の違いを調査したりしました(ツングースは自らをオロチョンと称したようです)。
探検は学術的なもの以外に北部大興安嶺を縦断し、一部空白地帯を含む地域を踏査しました。中央部では隊を二分して支隊と本隊に分けてより広範囲を踏査しました。紀行の中で盛んに谷地坊主と言う言葉が使われています。これは永久凍土が解けたり凍ったりを繰り返し、大地の表面が凸凹になる現象らしく、彼らの通行に大きな障害となったようです。このような地帯ですから木々はあまり大木に育つ前に倒れてしまったり、頻繁に起こるらしい山火事のため細い木ばかりのようです。豊富にある写真でもそれが伺えます。
私は学問的なことにはあまり関心はないのですが、標高が1000mを少し越えた位の山とはいえ処女地に近い山となれば大いに関心をそそられます。どんな景色が前途に広がるのか、頂上ではどんな展望が見られるのか。隊が二つに分かれ、ビストラヤ川源流域を行く本隊はこの付近の最高峰と思われるオーコリドイ1530mに登り、ハイマツ帯を越えた先の礫岩の山頂に立ちました。たおやかだけれど特徴のない緩やかな山並みが望まれました。下山は樹林で展望もなく、特長的な地形のないところを磁石だけを頼りに登山開始点の景色に戻ったのでした。
この時期の京大の一部は、今西を中心とする若手の道場のようなものだったのではないでしょうか。その手法は山を主としたフィールドワークによるものだったのです。私なども本からですが学生時代の登山のあり方の多くを学びました。隊長の今西錦司には後年ヒンズークシュ会議という場でお見かけしたことがあります。すでに老境にあられたのですが、なお山歩きに情熱を持っておられたようです。この探検隊は前記のように学生主体というあまり聞かない構成ですが、当時の京大ではこれが普通のようです。そこが他と大きく違うところではないでしょうか。世界的にも当時の探検記で学生主体のものはほとんど知りません。今西の独自性はこんなところにもあるのではないでしょうか。