「魂の森を行け」3000万本の木を植えた男 一志 治夫著 新潮文庫

私にとって夏の気候は文章を書くという思考活動とは相性がよくないようです。なかなか筆が進みません。次に取り上げようとした本はとうとうまとめることができませんでした。気候のせいにしていますが、筋肉と同じで、脳細胞のトレーニングを怠っているので、そもそも考えるということが苦手な頭脳になっているのでしょう。

植物生態学者、宮脇 昭の学研生活と世界で取り組んだ実践活動を、ノンフィクション作家、一志治夫が一年をかけたインタビューとルポルタージュしたのが本書です。読み終わっての感想は、「エネルギーと情熱の人」、でした。
農家に生まれた宮脇は、真夏の太陽を浴びながら這いずるように雑草を取る農民の姿を見て、何とか雑草取りをしないで米作りができないものかと思ったのです。
大学の卒業研究は雑草生態学でした。教授に、大切なことだけれど一生日の目を見ないし、誰にも相手にされないと云われながらフィールドワークで全国120ヶ所を一年間に四回まわった。これを六年間1440日間続け「緑の戸籍簿」を作り上げた。
そもそも、手弁当の貧乏調査旅行であった。このとき一年の240日をフィールドワーク、残りの120余日を横浜国大助手と東大研究生と半分づつ、ほとんどを研究室で暮らすという猛烈なものであった。それも自分に忠実に行きたい、瞬間瞬間をベストで生きたいという信条によるものであった。
大学紛争のときも、バリケードを破ってでも研究しようとする宮脇を、学生たちは唯一の大学に入れる教官として扱ったという。

武蔵野のクヌギ、コナラなど落葉広葉樹林は自然の森ではなく、人為的に変えられた二次的な植生で、本来は、急斜面などにわずかに残った植生からシラカシ林にタブノキ、スダジイなどの混じった常緑樹林であったことを学会で発表した。現在では常識になっているが、当時学者たちは半信半疑であったという。
以降、宮脇は全国でこの潜在自然植生は何であったかを求めた。企業、自治体などに依頼された植林を行うたびに対象の土地だけでなく、広く周辺の潜在自然植生を調査した。そんなに広範囲に調べる必要があるのかと云われながら全国の調査を進めた。そんななか文部省の研究補助金による『日本植生誌』全10巻、6000ページのプロジェクトを一地方国大である横浜国大を中心に作ることになった。
このようにして宮脇は、次々と潜在自然植生に基づく森作りを実践していった。
宮脇が潜在自然植生にこだわるのかといえば、自然な植生はその土地のいろいろな自然条件にあった植物であるということであろう。違う植物を植えても何百年か経てば自然植生に淘汰されてしまう。その数百年を無駄にしないためにも、また、自然災害による被害を拡大させないためにも、また、その土地に本来生息する他の生物のためにも必要なことなのだと思う。生物集団の均衡ということが重要なのだ。
人間は自然界の一員であるということは誰でも認識していることだけれど、生物集団の均衡の枠内でしか生きられないということは忘れがちだ。人が他の生物に打ち勝ち亡ぼしたなら、その生物、すなわち人間もまた亡びるという生物界の秩序も忘れてはならない。植物は地球上のすべての生き物がよりどころとする生物であり、植物がなければほとんどすべての生物が亡びるときなのだ。