「人間にとって科学とはなにか」 湯川秀樹、梅棹忠夫著 中公新書

現代人にとって科学とは何か、とはとても重大な問題であり、難題でもあります。これについて日本が誇る二人の碩学による対談です。本書の初版は1967年で、およそ50年前の出版です。私が求めたのは1997年の35版ですから30年で35版を重ねたベストセラーです。いま読み直しても心を刺激する対話が数知れません。
表題については科学者でなくても折に触れて自問することのある問題です。たとえば「こんなに科学が進歩して生活が便利になり、医学が進歩したけれど、本当に自分たちは幸せになったのだろうか」という自問です。
世界を見るとニューギニアの方には、現代文明には触れてはいても頑なに自分たちだけの自給自足の生活を守っている人々がいたり、長いこと鎖国に近い状態であったブータンのように、自分の国は幸福度世界一だと誇っている国もあります。ともに現代文明に否定的でないにしても、何かしら疑問を持っている人々だと思います。
実は私はこの本をこのような疑問すなわち、「人間にとって科学の進歩がもたらすものは何か」という視点からの本だと思っていたのです。ところがそうでないものがあるなんて気が付きませんでした。というのは、お二人は科学の当事者(すなわち科学者)にとっての科学とは何か、いいかたを変えれば科学する心について述べ、対して、私たちは科学の受け手としての科学とは何か、という立場の相違による考える角度というか、切り口が違うなと思ったのです。ためしにほかの科学者の本として、湯川に次いでノーベル賞をとった朝永(ともなが)振一郎の「科学者の自由な楽園」岩波文庫の「科学と科学者」にはおよそ次のようにありました。科学は美術や文学、音楽と同じように人間に内在するやむにやまれれぬ知的な好奇心によるもので人間の自由な精神活動そのものであるといい、人の生活を豊かにするというのは、その結果に過ぎないといっています。
なるほど科学者はやはりこういう見方をしているんですね。しかし、医学の分野などは病気を治す、という目的を明確に持っていることも確かです。それとも、医学は工学と同じように実学としての側面が大きく、人間生活の向上のための学問として分けて考えるべきものなのかもしれません。

さて、私たちが高校で学んだ物理は容易に理解できるものでした。人間の日常感覚で理解できるものです。いわゆるニュートン力学といわれるものです。ところが20世紀に入ってニュートン力学では解明できないものがでてきました。それは原子のさらに微細なものを解明するために量子力学が生まれるに及んで科学がだんだん難しくなり、人間の感覚から遠いものになりました。アインシュタインの相対性原理など何度勉強してもよくわかりません。現代の科学は非人間的で簡単な学習では理解できないものになってしまいました。
しかし、量子論を深めれば宇宙創成時のビッグバンの時代まで遡って研究する必要もでてき、分子生物学は心を含めて生命現象を物理的現象の一つとして解明する道を開きつつあります。これまで、それぞれの分野で別々に行われた研究は、本来あるべき姿である分野の統合がされつつあります。湯川はこの時代すでに科学の統合的世界観に情報というものが有効らしいといっていますが、50年後の今日、情報は科学の有力な手段となっています。生物のDNAなどは情報そのものが生物の進化、性質に重要な働きをしています。
さて、科学は人間の好奇心を原動力に加速度的に発達してきましたが、科学の現在と未来はどうなのでしょうか。本書の後半には科学の抱える問題点も指摘されています。科学を客観的に見ようということです。
梅棹は、科学というものが、すでに後期的状態に入っていると考えた方がいいといいます。湯川は、自分は科学万能とは思わないが、科学万能に近い世の中になりつつあるともいいます。たとえば、人間の精神状態は宗教的に安心立命を得ていたのが、現代社会では強いストレス状態にある。精神状態をを科学的にコントロールしようとする可能性もありうる。
私たちは宇宙のことも、物質、地球、生物、人間の生命現象も、まだ判らないことのほうが多いにしても、かなりのこと、アウトラインはほぼ描ける状態のように思います。科学者は特別な一握りの人たちだったのが科学者が普通の職業になる。科学の大衆化。クリエイティブなもの、アドベンチャラスなものではなくなってくる。科学のルーティン化はもう始まっています。科学が非常に大きな組織になってきます。
しかし、始めの話にもどれば「科学は目的があって始まったものではない、やめとけいうても、やめられん、科学は知的衝動だ」となると科学はどこに向かってゆくのだろうか。人の生命の流れが将来のいつか、必然的に科学の究極のところまで行き着いてしまうのか。何が幸福かという問題が現れてくるに違いないとも。これからの時代、科学者を始め、私たちはつねに「人間にとって科学とはなにか」と自問しつつくらすことが求められるようにおもう。

あとがきで、私(梅棹)は、湯川先生とお話をしていると、いつもこのようなこころよい知的興奮を感ずるのである。次から次へと、実におどろくべき話を持ち出してこられる。‥こころよい知的興奮を楽しむことができる。と述べています。私も読者として同じ気持ちで読みました。