「アルプス・ヒマラヤからの発想」藤田 和夫著 1992.7刊 朝日文庫

この本はおそらく買ったままで一度も読んでいないか、途中まで読んでそのままにしたか、いずれにしても完読はしていないとおもいます。今読んでみると予備知識がついたせいか、あるいは興味関心が本の内容に合ってきたせいか興味深く読みました。少し長めの文になってしまいました。
著者の藤田和夫は本欄で先にあげた「大興安嶺探検」へ川喜多二郎、梅棹忠夫とともに支隊の隊員として活動したメンバーでもあります。この本では著者が旧制高校生時代に始めての海外(当時は日本)での探険登山として朝満国境上の白頭山(長白山)から始まります。
京大で地質学を専攻する学生になって旧満州北部の大興安嶺探険(今西錦司隊長)。
戦後1955年、京都大学カラコラム・ヒンズークシュ学術探検隊のカラコルム隊(今西錦司隊長)の地質班として参加。地質班はギルギットからインダス渓谷をへてバルトロ氷河をさかのぼり8000mの高峰に囲まれたコンコルディアに達し(今はここまでツアーがある)世界第二の高峰K2に接した。さらにビアフォ氷河から巨大な雪田のスノーレークを訪れ、ヒスパー氷河からフンザを経て広大な第三の極地といわれるカラコラムを一巡した。翌年自身が隊長となってパキスタンのパンジャブ大学との合同探検隊を組織して、前回の西側に連なる東部ヒンズークシュを探険した。この探険記を読んで感じるのは現地の人々と接するのが友好的なことだ。相互に信頼して接すれば友情が生まれ万事がスムースに行く。この地域の初期のヨーロッパの探検家は「人情が悪い」と報告しているのに対して彼らは実にホスピタブルだと書いている。現地で雇った案内のダウラト・バハイというイシュコマンきっての猟師が登場する。猟師を現地語でシカリとルビが振ってあった。おや!と思った。日本でも東北の猟師をマタギというがその頭領はシカリといって山中では絶大な権限を持っている。偶然の一致か関連があるのか知りたいものだ。著者は彼のことをディルスウ・ウザーラを思い出したと記している。地質学者としてはカラコラムの山々は花崗岩と石灰岩でできていてはるか西方の今年の探検地ヒンズークシシュに延びて次第に高さを減じてゆくと報告している。またこの地域は深発性地震の多発する特異な地域らしく、さらに奥地を探査したかったがこの地域は政治的に非常に不安定な地域でそれは果たせなかった。合同隊は現地での調整にはとても有力であった半面いろいろな面の力量の違いなどから思うに任せないことも多いのは当然だ。しかし彼らはそれをマイナスととらえずに次へのステップと思っているところがすばらしい。
次の展開はアルプスである。「造山帯の本家はアルプスである。その延長としてヒマラヤがあり、アルプス・ヒマラヤ造山帯という言葉が生まれ、日本列島はさらにその延長ともいわれてきた。」それを検証するためのフィールドワークである。「アルプスの高峰は西側に多い。東に行くほど低くなる」とこれを縦断する計画だ。現地の多くの学者とも接する。二万年前の氷河期のアルプスのシミュレーションを見ると、グリーンランドや南極の山を見るようで大雪原に岩峰の頂上だけが頭をだす景観である。アルプスは氷河が山地形成に大きな役割を果たしたことを再認識する。
ヨーロッパは安定大陸といわれ、地震が少ないのだ。次いで大陸でありながら地震の多発する中国を訪れる。しかし本書ではその前にシルクロードへのアプローチとして地球資源探査衛星(現在はランドサットといわれる)がとらえた地上遥からとらえたとらえたマクロな視点からの中国の地形に関心を深める。しかし、師と仰ぐ今西錦司に見せると「わしはこんなのすきまへんな」というすげない返事であったと回想する。「人工的な手段で地球の隅々まで見てしまいたくない」という気持ちは私も共感できる。グーグルアースを使えば地上に未知のところはない。私もかつて世界の資料を集めてインド地域のヒマラヤの地図を作り、山岳雑誌に連載したことがあったが、もうそんな労力をする必要もない。しかしそれはわれわれから夢を奪うことにもなった。テレビではドローンを使って山岳を撮影しているが、人には見たくても見られない景色があったほうがよい、と思う。話がそれた。メカニズムに通じる西堀栄三郎ならどんな反応をしただろうかという挿話があったがすぐに本人からはがきが届いたそうである。
ここまでで半分をすこし過ぎたところである。切りがないので先に進むがとても興味深いので後ろ髪引かれるおもいで飛ばします。
日本には巨大な岩壁はありません。ヨセミテの一枚岩の大岩壁のようなのはないのです。それは変動帯といわれる日本では繰り返し断層が動いて亀裂ができ、石灰岩のようなその亀裂をふさぐような接着剤の役割をする岩が多くないので風化とあわせて花崗岩は砂のようになってしまいます。燕岳、甲斐駒ケ岳など白い砂のように見えるのがそれです。広島の豪雨災害の土石流も然り。
さて、中国は続く巨大地震のため抗震運動というアマチュア、民間人の観測網が作られ学校のクラブ活動でもデータの解析などもするそうです。警報後15分で大地震が起きたが一人の死傷者も出なかったとのことです。人海戦術でデータを集めることで人々の地震に対する意識も向上したということでしょう。1974年の時点で雲南省内に22ヶ所の観測所、750ヶ所の大衆観測所、従事するアマチュア4000人だそうだ。このときの地震後の写真を見ると北海道でブラックアウトを起こしたときの地震で山の斜面がことごとく地すべりを起こした写真とそっくりであった。
インドプレートの穂先がパミール高原に向けて突き刺さるようになりインダス川はナンガパルパッドのあたりで鋭角にへの字に曲がりその力はチベットを東へ横ずれ断層を起こすように働いている。それと直行するように東北地方から南に構造帯が続き太平洋の島孤と方向が一致し中国東部は太平洋圏内にあることが想像されるという。中国はインドプレートと太平洋プレートの相互の影響を受けているという考えがあるそうですがまだ課題が多いといいます。
本も後半になるとアルプス・ヒマラヤ造山帯と一括りにした考えで論じていたのをその相違点を示し、造山帯という用語も適切さを考え変動帯という考えに切り替える考えを示す。地質学的に最も新しい新生代第四紀はこれまで平穏な時代とされてきたが現在の知見ではヒマラヤでも日本でもその前の地質時代のほうが平穏で人類の時代である第四紀のほうが変動の大きい時代であり、現在もそれが続いているとした。自身の専門研究である近畿地方の地質構造の研究からも大阪では落差数百メートルに達する大規模な断層が確認され、50万年くらいまえから地殻変動が活発になったという。これまでとはまったく逆の調査結果が得られるという。
書名の「アルプス・ヒマラヤからの発想」はそれぞれの地域を詳細に現地に赴いて調査する藤田の手法とそれぞれの地の研究者の知見やデータを得て「アルプス造山運動というのは約一億年前の白亜紀から始まり‥‥世界の大山脈を作ってきた運動だとされてきた。日本列島の骨格もこれによって形成され‥」という考え方は必ずしも現在の研究成果にそぐわないものが出てきた。それは、プレートテクトニクスの考え方の登場によってもたらされたといってよいであろう。